おひさしぶりです

かれこれ1年半ぶり?

久しぶりにブログを開きました。

実は私たち夫婦、日本へ移住したのです。計画していたわけではなく、あれよあれよと日本へ帰ることになり、初めて暮らす、東京へ。

東京には慣れたようで、慣れないこともまだまだありますが、毎日めまぐるしく過ぎています。

拠点は日本になりましたが、これからちょくちょく更新していけたらと思います。

引き続き、よろしくお願いします!

発信すること その2

昨日の投稿の続き。

昨日は発表の機会への心持ちを中心に発信することを書いた。

今日はその後のことを。

上向きな気持ちで取り組めた昨日の発表を経て、発表後のコメント以外に様々な反応があった。

コペンハーゲンのキャンパスで発表を聞いていたT(うちの大学はコペンにもキャンパスがあり、ミーティングはオールボーとコペンをビデオ会議で繋いで行う)と我が研究所に短期滞在中の研究者Mからのメール(方法論に関連のありそうな論文4本と共に)。

よくつるんでるPhD仲間のWからオフィス訪問&激励&資料提供。

そして私がちょっとびびってた教授から、関連度の高い彼の2本の論文が届いた(2016年に出版予定なので、本文だけくれた)。

指導教官からも、もちろんコメントがあった。

正直言って、少し驚いた。

こんなに反応があるとは思わなかったのだ。

私の行っている研究はいわゆる質的研究で、インタビューがベース。

我が研究所で主流なのは統計などの大規模なデータを使った定量的な研究で私のようなアプローチをとる者は少なく(教えはするけど興味はなさそうだし)、普段の会話からヨーロッパの外に興味なんぞない人たちの集団だと思っていた。

そんな風に決めつけ気味だった私は彼らの前で発表することを結構躊躇していたのだが、今回は自分から、発表させて!と言ってみたのだ。なんでかと言われると分からないんだけど、11月18日にスポット空いてるねんけど誰かなんか発表せん?という話が出たとき誰もが渋ったので、なんとなく、じゃあやると言ったのである。

もちろん以前にも自分の研究成果の一部を発表したことがあり、同様にインタビュー結果を用いたものだったが、振り返ってみれば「質的研究なんぞ君たちどうせ興味ないんだろ」臭がむんむんと放たれていた気がする(笑)。そんなこと思ってる人から話を聞いたってそりゃあ面白くもなんともないよね。反応もイマイチだった。

今回はその点を反省し、というか自分が面白いと思ってないと相手も面白いわけないと悟り、興味深いと思ってるんです、ここ、ホラ、面白くない?っていう空気を出せるように、そして自分の研究を卑下しないように堂々と向かうよう気をつけた(と思う)。

そのおかげなのか、私の研究が興味深い方へ発展したからなのか、以前よりはグンとマシな英語で発表できるようになったからなのかその辺は定かでないが、

「僕らの分野って、まきこみたいにインタビューベースの人ほんまに少ないやん?すごく大事な視点と思う!」

「日本とデンマークの違いだけじゃなくて類似点とか知らんことがしれて面白かった」

なんて言ってもらえて、発表した甲斐があったもんだなと思った。

我が研究所の発表担当は基本的に自分から言い出すので、君次回担当ねとか言われることはまずない。PhDの場合は1年目だけは必ず、これからやることをお披露目しないといけないが。
なのでほぼ全くと言っていいほど発表していない人もなかにはいる(私が思うに3人ほど…)。そのうちの一人はとても穏やかな性格で、ビビリなところが私に似ていて(そんな風に形容してごめんね)よく話す女友だち。彼女はいつも、発表できるようなレベルにはないし…と言って発表を避けている。その気持ちも痛い程分かる。皆の発表を聞いていると、完成度が高く、出版までそう遠くないレベルのものが多い。研究所には政治学だけでなく、社会学や哲学をバックグラウンドに持つ研究者もいて、方法論についても結構突っ込まれる傾向にある。

私も自分が発表して良いレベルなのかどうか、自信がないことがよくある。しかもデンマーク人の専門家の群れの前でデンマークの政策や制度のことも話すわけで、こんだけ知ってる人らにとって私のこの理解ってどう捉えられんねやろ、と不安に思うこともしばしばある。

それでも、発してみることで道が開けるというか、何かが寄り集まってきてくれるのだなと、当たり前のことなのかもしれないけど改めて感じた。

興味があります。こうしたいです。

そういう態度と、自分が本気であると示すことはすごくすごく大事なんだなと。

3年半前にここに来たときにも感じたことだけど、この研究所のミーティングで私が一番好きなところは誰も人の発表を馬鹿にしないところだった。特にPhD1年目なんて教授からしたらまだまだ未発達な研究内容だったりするけど、それでも、ここは視点が面白いとか対等に意見をくれる。もちろん、弱いところはずばっと指摘もされる。だけど、まだまだひよっこだなお前はというような雰囲気はないのだ。

これはデンマークならどこでもそうというわけでは決してない。実際に私が経験したわけではないが、同じ学部にある別のグループは若手をなじりまくることで悪名高い。そんな研究やって意味あるのか?我が研究所の関心とそぐわんではないか、と私の友だちはけちょんけちょんに言われ、そのテーマの計画書で私を雇ったのはどこのどいつよと相当怒り心頭だった。彼女の研究はグループ外ではかなり認められていて、シンクタンクからヘッドハンティングのオファーがあった程だし、学術的にもすごく意義のあるものだと私も思う。

私が在籍しているグループは社会政策研究を専門とする集団で、日々、人々にとってより良い暮らしとは何かを模索しているグループだからこそ、余計に一人一人の態度も個人を尊重するものなのかもしれない。長く居れば居る程それが当たり前になってきていたし、不満がある時期もあったけど、今居る場所の良いところをすっかり見落としていたような気がする。改めて、この人たちと出会えたことに感謝。

 

 

 

 

発信すること

ここ最近、色んな形で人前に立って話す機会が続いた。

先日告知した日デン友好協会での講演、修士課程の授業の一コマを頂いての授業、そして所属する研究所の定例ミーティングで発表。

3年半前、オールボーでPhDを始めたばかりの時は人前で発表することがすごく苦手だった。今でももちろん緊張はするけれど、発表の機会をもっとプラスに捉えられるようになったと思う。

というのも、そもそも発表の準備とは自分の言いたいこと、考えていることをクリアにする作業でもあり、準備しているだけでもかなりの学びがある。

考えてみれば、自分に割り振られたプレゼンの時間とは人が自分の話を聴いてくれることが前提の時間。聞いて欲しいのに時間をとってもらえない、というわけではなくむしろ聞いてあげるよと言ってもらえているわけである。授業なんかは特に、興味はなくても必修だからとりにきたんだいという消極的なオーディエンスもいるだろうし、皆が皆温かく話を聞いてくれるわけではないが、それでも発信する時間を与えてもらえるというのは有り難いことだなと思う。

そして発表後にもらう質問やコメントは更に有り難い。
反応がないのが最も悲しいので、どんなことであれ、発信したことに対して考えてくれたことは嬉しい。たまには的が外れた批判や、関係ない方向からの非難のような言葉さえもを受けることがあるのかもしれないが、それらを懸念するよりも、聞いてもらえる嬉しさと自分では思いつかなかった点を指摘されたときの新しい発見を楽しむ気持ちの方が先に立つようになった。

以前は質問されるのが怖いと思ったこともある。答えられなかったらどうしようと自分の体裁を気にしていたからだ。受ける質問には正解が一つ、ということはまずない。質問によってその点に関しては自分がこう考えてたんだと分かったり、そもそも考えたこともなかったなと思わせてもらえることもある。そんな時はもらった質問に質問で返すこともある。私は考えたことなかったけど、あなたはどう考えてるの?と言った風に。

機会をどう活用するかは自分次第なんだなと思う。発表しなければならないと消極的に向かっていたときはこんな風に考えられなかったけど、相手が貴重な時間を割いて来てくれるのだから今できる最大限に近い何かを発信したいと思えるようになった。

今日発表した場は出席が任意で、他に切羽詰まったタスクがあったり、あまり興味がないテーマだと出席しない(若手はそうもいかないので毎回出席必須)教授もいる。いつもなかなか鋭い質問をかなりストレートに浴びせてくる教授がいて、今日は来てくれるかな、どうかなと思っていた。これまでならビビっていたところだが、むしろ私の発表のために出席してくれたこと(発表者は私だけだったので)が嬉しいなと純粋に思えた。聞いてみたいと思ってくれたんや!と。そして彼のコメントは私自身がここ弱いなと思っていたところでもあり、来たか!とも思ったけど、論文をもっと良くするためにと思って発言してくれたことはやっぱり嬉しかった。

こんな感じで、発表するときはちょっと厚かましいくらいに、自己中に、私のために聞きにきて発言してくれてるなんて!ぐらいに思っている方が結果的に良い(賛同という意味でなく、今後の発展に有益という意味で)コメントも引き出せるのかもしれない、と思ったり。

 

近況

今、私は一体どういう状態なのか、気にかけてくださっている方からお声をかけていただいたりするので、ちゃんと書いてみることにしました。
普段からお気遣いくださる皆さん、元気づけてくださる皆さんにここで改めて感謝します。

さて、自分の状態が結構宙ぶらりんな気がしてあまりはっきり書いてこなかったけど、現状、私はまだ大学に籍があります。来年の3月まで。

博士課程での必要単位は全て取得しました。

博士号に必要なのはあとは論文提出とその審査(口頭試問も含め)。

今までと変わらずオフィスを使わせてもらい、研究所のミーティングにも参加しています(来週は私が発表者だし)。

と同時に、職を探している状態でもあります。
以前、この投稿に書いた通り、私の収入源は失業保険。職探しはその義務なので失業保険を支給しているAkasseという団体や、ジョブセンターというハローワーク的な機関、両方に就職活動の報告(週に2回は応募する)、加えて定期的にお呼出がかかりミーティングに出かけます。職探しもこちらではフルタイムの仕事とみなされており、お呼出がかかれば、面接などがない限り指定の日に必ず出向かなければならないですし、デンマーク国外へ出る場合はジョブセンターに必ず申告が必要です。

どんな職かというと大学に残る道ではなく、外をみています。

研究を通して得られた知見をどう応用・活用していくのか
ということに次第に興味が移ってきました。

更に、自分が携わりたい活動の種類というか性質として
個人や団体のポテンシャルを考えながら繋げていくとか、関係性を生み出していくような、そんなお仕事がしたいと考えるようになりました。
振り返ればそういう類のアルバイトや課外活動をしてきたし、こういうことが好きで、得意でもあり伸ばしたいことでもあると思います。

博士課程に入って、様々な活動を経て、本当にたくさんの学びがありました。
大学での研究生活を通して、これからやりたいと考えていることへの足がかりになる知識やスキルを学び、身につけてこられたと感じています。
大学の外へ出るといっても、今までと変わらず「人の暮らし」に対する興味は尽きていないし、何かについて好奇心を持って追究する姿勢も私の根底に流れたままです。

ブログを更新しながらも、こういうことに最近あまり触れてこなかったのは、長らく自分でもどうしたいかよく分かってなかったからだと思います。だから職探しも大学での活動もどちらも宙ぶらりんで中途半端でした。身が入ってないというか。
夫にかなり心配をかけるほど抜け殻のようになっていた時も実はあったのですが、今の時期にとことん自分と向き合い、見つめる機会と時間を持てたことは贅沢というか、とてもありがたいことだと思います。周りにはなかなか迷惑をかけてるかもしれないけど…皆さん、いつも温かく見守ってくれてありがとう。
正解がある問いではないからこそ、考え続けることでもあり、これから更に経験が増え、自分と周囲の環境が変化すればまた違った方向へ進んでいくこともあるのでしょうね。

今後どんな場所に辿り着くのかはまだ分かりませんが、
自分にも周りにも誠実に、そして心が素直に反応したり、時にワクワクしたりする方面で何かしら貢献できるように精進したいと思います。

見た目と中身のギャップ

夫がニヤッとしながら台所から出てきて

「もう少し色味に改善の余地があるけど美味しいよ」

と持ってきた手作りのミックスジュース

いや、

かなり、

見た目すごい色ですけど!

色々とグラスのフチについてて汚らしくてすみません。写真よりも実はもっと黄土色感が強かったです(笑)

でも、これが美味しいんだな。

目をつむって飲んでみたら更に美味しかったわ(笑)

バナナ、ケール、しょうが、パプリカ、りんご、ミルクとパセリが入っております。

今月は炭水化物を減らしてこういうジュースをいっぱい作る食事にするんだって。

夫の実験は続く。

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余裕

日々、何かに一杯いっぱいになると
つい余裕がなくなって
柔らかく考えることができなくなってしまうなあとちょっと反省しました。

なかなか自分の期待するように進まなくて心が少し下向きになると、
やっとそんな期待をしていたことに気づかされる。

あ、私こうなって欲しいと思っていたんだな。
とか
時には
こうしなきゃ
これは、こうならなきゃ
と、何かしら枠を自分で作っていたな
とか。

そして最近は今まで経験の少なかった小さなことの積み重ねに出くわし
こんなことも知らなかったなんて…と落胆することもままあり。

知らなかったこと、つまりは新しいことを学べているんだと楽しむ余裕
が心になかったなと。

頭が
こうしなきゃ とか こうでなきゃ
と言っているときこそ、
なぜそうしなきゃ、そうでないと、と思うのか
熟考してみる良い機会のような気がします。

意外とそうしなくても、そうでなくとも、良かったりするんだよね、思い込んでるだけで。

時に、先入観や固定観念に惑わされ
自分で自分を追い詰め

そんな時もある。

それを経て
ふっと「ああ、そうか」
と気付けたときはパッと目の前が明るくなったような気がしますよね。
ほんの少し、捉え方を変えただけであっても。

 

 

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罪悪感

ずっとブログの下書きとして保存してあったこの投稿。
書いたことを、すっかり忘れておりました。
先日の読書の記録をスタートしたことに繋がる内容なので、せっかくだから投稿して残しておきます。

_____________

大学3年生か、4年生のときに立ち上げたブログを今になって思い出し検索をかけてみた。

まだ残っているではないか。すっかり忘れてたなあ、このブログのこと。

もっともっと日本語で「書く」練習をしたいと始めたあのブログ。たった5つしか投稿はなかったが、「書く」ことに対する自分の初々しい気持ちが綴られた初回の投稿に、気恥ずかしくも、私が再び感じている表現への熱のようなものを読み取った。

漠然とした思いと感情の塊を日本語の文字に載せていく。それはなんとも表し難い快感を私に与えてくれる。

自分がモノを書くことを人並み以上には好んでいることを自覚していたものの、こんな気持ちが湧き出て来ることに少々驚いてもいる。

デンマークに越してきてからというもの、日本語にまみれた表現空間を私はなんとなく避けてきた嫌いがある。

気付かぬうちに、英語(や時折デンマーク語)に囲まれる「べき」だと、自分で自分に制限をかけてしまっていた。英語に対する自分のコンプレックスが故である。

デンマークへの最初の留学が決まる2年ほど前から日本で英会話学校に通っていた。

といってもブランクもあったし、2年間ずっと通い続けてたわけではないのだけれど。

後に母に言われたのだが、英語嫌いを公言していた私が突然英語を勉強したい言い出したそうで、母は非常に驚いたそうである。確かにその頃は留学なんて考えてもいなかった。そもそも高校時代は「英語なんか使わん人生を歩むからもう英語勉強する必要もないやろ」と投げやりな言葉を周囲に吐いていた気がする。そんな私が突然なぜに英会話を学びたいと言い出したのか、正直自分でも明確には覚えていない(笑)

大学生のときにカナダを10日間ほど一人旅した。といっても5日間ほどは当時バンクーバーにいた高校時代の友人宅に遊びに行かせてもらったので本当に一人だったのは5日間だけ。そんな短期間ではあったけれど、英語で何も話せない自分がすごく悔しかった。注文くらいは単語でもなんとかなったけれど、お礼が言いたくても、時には文句が言いたくても、文章にできない。

旅行中に一人でナイアガラの滝に行ったとき、陸路でカナダ側から米国側へ渡ろうとしたことがある。

陸から国境を跨ぐというのは島国で育った私にとって新鮮で、ちょっとした好奇心だった。

国境にある入国管理のオフィスでパスポートを見せれば良いだけのはずだった。

ところが私のパスポートにはどうもカナダへ入国したスタンプがなかったようで(空港の職員が押印を忘れたんだろう)、職員に別室へ連れていかれてしまった。いかつい大男数人に囲まれ、いつカナダに入ったのか、どうやって、なぜ、など質問される私。聞かれたことにはなんとか答えられたけれど、必要最低限の答えを言うだけ。

状況を把握した職員は何やら書類を作成し、これをカナダ側に見せて入国スタンプをもらってからもう一度アメリカ側に来るようにと言った。

書面にふと目をやると

Makiki XXX

あれ?私の名前マキキになってる。

まっきっき。

でもその時の私にその間違いへコメントする余力は微塵もなかった。はっはっはと笑い飛ばすことも、パスポートと名前違うけどこれ良いの?と聞くこともできなかった。

結局は特に問題もなく時間がかかっただけでアメリカ側に無事に入れたのだけど、その時の自分があまりに不甲斐なくて、すごく悔しかったのを覚えている。

その経験と悔しい気持ちは英会話を勉強したいと言い出すには十分だったのだろうと思う。

英会話学校でよく担当してもらっていたポールという先生がデンマークに来る前に私に言った。

行ってしばらくは日本語に甘えてはいけないよ。耳から聞くことば、目に触れることば、口から発することば、そして書くことば、全てを英語で囲うくらいのつもりでいきなさい。英語がうまくなりたければね。

彼のその助言は私の心に深く刻まれ、日々の生活のなかで日本語の比重が増えると、うっすらと罪悪感が募ってしまうようになった。

あれからもう何年も経過している。まだまだ発展途上ではあるが(そしてあくまでデンマークで暮らす上でだけれど)、致命的に分からないというレベルは脱している。

それと引き換えにとでも言うべきか、この数年間を振り返ると次第に大好きな日本語の小説・エッセイをすっかり読まなくなった。

読みたいものが電子書籍になっておらず入手し辛いという理由もある。

日々論文を読むという作業のなかにいて、「読む」という行為そのものに疲れているときもある。

でも一番の理由は多分、日本語の小説やエッセイを読む暇があるなら英語で書かれたものを読むべきではないか、と日本語の書物(参考文献以外で)を避けてしまう自分がいたことだと思う。

結果として、生き生きとした日本語を紡げなくなった。そんな気がするようになった。

目の肥えた編集者つきの作家でもあるまいし、そんな些細な変化を誰かが気付くことはなかったと思う。

ただ、自分自身が、説明的な表現しかできていないことにとことん落胆したりした。

最近ブログの更新頻度が上がっているのはこんな思いからでもある。

そしてなんとなく避けてしまっていた日本語での読書も再開しつつある。

10代の頃は寝る間も惜しんで夜中まで読書に耽ることがよくあった。今は電子書籍で読むことが多いので目が疲れてきてそこまでの勢いはないけれど、一つ一つの本の世界観に浸るのは良書であるほどに心地よい。

今度帰国したら古本を買い漁って船便で送ろうかなんて考えている。

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